交通博物館

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交通博物館
1936年(昭和11年)

閉館直前の交通博物館に行ってきました。
お目当ては旧万世橋遺構の特別公開。
この特別公開が開催されるまでまったく知らなかったのですが、
ここは元々万世橋駅で、交通博物館は旧万世橋駅の基礎を流用して建てられました。

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横から見たところ。

1904年(明治37年) 甲武鉄道市街線飯田町~御茶ノ水間開通。
1906年(明治39年) 鉄道国有化により、甲武鉄道が国鉄となる。
1908年(明治41年) 中央線御茶ノ水~昌平橋駅(仮駅)間開通。
1912年(明治45年) 万世橋駅開通、昌平橋駅廃止。
             設計は辰野金吾・葛西万司、ターミナル駅として賑わう。
1914年(大正3年)  中央停車場(東京駅)開業。
1919年(大正8年)  万世橋~神田~東京間の開通により、
             万世橋駅はターミナルとしての役割を終える。
1923年(大正12年) 関東大震災により万世橋駅焼失。
1925年(大正14年) 2代目万世橋駅が再建されるものの、
             初代にくらべるとずいぶん簡素なものだった。
1936年(昭和11年) 東京駅にあった鉄道博物館が移転、
             旧駅本屋の基礎を使って3代目万世橋駅を建設。
             鉄道博物館と併設される。
1943年(昭和18年) 万世橋駅営業休止。
(交通博物館の解説シートより)

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ミニ展示コーナー『万世橋駅 -失われた幻の駅-』には
20分の1の模型、駅名標、工事記録や写真を展示してました。
こうやってみると、東京駅のミニ版。
手前に立っているのは広瀬海軍中佐の銅像。
展示を見ていたおばあさんは「そうそう昔は駅前にこの銅像があってね」
と懐かしそうに話していました。

といっても広瀬中佐って誰?、そして足元の人は?と思ったので調べて見ました。
広瀬武夫少佐は1904年(明治37年)、旅順港閉塞戦で福井丸の指揮官となり、
行方不明の部下、杉野孫七兵曹長を捜索中に戦死。
広瀬少佐は死後、中佐となり、軍神として小学唱歌にも歌われた。
足元の人が杉野兵曹長ですね。彼は出撃前に残した手紙で、
子供は広瀬少佐にあずけ、海軍軍人にするようにと書いているそうなので、
2人の師弟関係は強かったのでしょう。
実はこの杉野兵曹長は満州で生きていたけど帰れなかった説もあるそうです。
この銅像は1947年(昭和22年)、撤去されました。

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1階の休憩コーナーの階段は旧万世橋駅の階段を利用。
ガラス窓からホームへと続く階段跡を見ることができる。

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JR中央線高架下レンガアーチ
スクリーンでは万世橋の歴史を上映。

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ホームへと続く階段。

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旧万世橋駅ホーム跡
ガラス越しに眺めるだけですが、すぐそばを中央線が通過。
「運転手に影響しないようにフラッシュは決して使用しないでください」
と言われました。

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9850形蒸気機関車「マレー式」(左)とC57形蒸気機関車(右)。
博物館事態は増改築を繰り返し、手狭な印象はあるものの、
蒸気機関車がすっぽり入ってしまう吹き抜けホールは見事。
天井に飛ぶヘリコプターはベル47 D-1型

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アンリ・ファルマン機

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座席の歴史を紹介するとともに、実際に座って休憩できるところがナイス。

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建築史の本などによく出てくる東京駅を描いた洋画。
乗車口と降車口が違うので、人の流れが左右で異なっています。
右側には0哩標識。

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150形蒸気機関車「1号機関車」

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1号御料車
桐紋をアレンジした感じの模様が配置されている。

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2号御料車
こちらはドイツから輸入したものということですが、

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不思議な飾りが。あひる?鯉?

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旅客車の模型も多数展示。量産型ガソリンカー キハ41000形

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特急用客車 14系

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交流直流両用特急電車 485系

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大正の客車

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パンタグラフのシミュレーター。
ガシャン、プシューという“電車の音”がして非常に萌えた。

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大人気の模型鉄道パノラマ
「はい、今、中央の駅から出発したのはスーパービュー踊り子号です。
暗くなってから動き出したのは北海道へ向かう寝台車カシオペア。
そうこうするうちに東北新幹線が帰ってきました」
というアナウンスが楽しい。きっと動かしてる人も楽しいんだろうな。
ちゃんと新幹線が他の列車より早く動くなど芸も細かい。

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屋外に機関車が展示されているというのもすごい。
屋外展示には2階の連絡通路から降りる。手前は駐車場。

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屋外に展示されている開拓使号

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弁慶号

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時代を感じさせるステンドグラスが素敵な映画ホール
「機関車物語」や「ニルスの不思議な旅」などを上映してるようです。

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なぜか懐かしさを感じる階段踊り場。

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こちらも階段。カーブを描くガラス窓がモダンです。

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スタンプラリーでもらえるクリアファイル。
9ヵ所のスタンプがクリアファイルでは写真になるとこがおもしろい。

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万世橋から見た高架下レンガアーチ。

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万世橋。

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おまけで向かいにあった看板建築。
1936年(昭和11年)、交通博物館落成時の写真にも写っていたので
ずいぶん古い建物ですが、現在も営業中。

日本銀行大阪支店

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日本銀行大阪支店
1903年(明治36年)
設計:辰野葛西建築事務所
(辰野金吾、葛西万司、長野宇平治)
1982年改修

1882年(明治15年)12月、本店開設後2ヵ月余りで大阪支店開設。
1903年(明治36年)、現在の元島原藩蔵屋敷跡に移転。
1975年、新館起工。
1980年、新館竣工。
1980年~1982年、旧館復元・改修工事。

真ん中にドーム型の屋根、両脇に三角屋根。
かつては三角屋根の下は天井吹き抜けのロビーで、
採光効率を高めるため、三角屋根部分のみガラス製素材を採用。
そのほかの屋根は青銅板。

外壁はレンガ壁に花崗岩を積んだもの。
もともとは白色系の壁面だったが、明治以来からの煤煙や、
戦時中に空襲を回避するために塗った(!)薄墨などで
薄黒くなっており、改修の際に弱アルカリ性洗剤で洗浄、
新館との色調のバランスをとっている。
改修工事は、御堂筋側から見える東、北、南の壁面だけを残し、
西面、屋根、床面を取り外して、内部の工事を行ない、
工事終了後に屋根を再び取り付けている。
以上、支店博物館を参照。

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角柱と丸柱を混用した玄関ポーチ。

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旧館は、ネオ・ルネッサンス様式を採り入れたネオ・バロック様式。
ベルギー国立銀行がモデルだとか。

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新館。中之島の景観を考慮し、旧館に似せてデザインされている。

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日銀前にあったポスト。


大阪市中央公会堂

雨の中、梅田から中之島まで歩きました。

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フェニックスタワー
“WELCOMING-FLAG/幟”がイメージだとか。

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大江橋北詰
1935年(昭和10年)
一般公募により大谷龍雄のデザインが選ばれた。

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右に日銀。

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左に大阪市役所、中之島図書館が見える。

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大阪市役所
1986年
1921年(大正10年)に建てられた旧大阪市役所は1982年解体。

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旧庁舎にはかなうべくもないが、この手のデザインは嫌いじゃない。

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財政問題やなんやらでいろいろ言われている大阪市役所。
中之島図書館前からの眺め。

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大阪市中央公会堂
1918年(大正7年)
原設計:岡田信一郎
実施設計:辰野片岡建築事務所
施工:清水組
2002年改修
改修設計:大阪市住宅局営繕部、坂倉・平田・青山・新日設設計共同企業体

1911年(明治44年)、大阪北浜の株式仲買商、岩本栄之助が建設資金として100万円を寄付。
1912年(明治45年)、建築設計競技により最優秀案となった岡田信一郎の原案に
辰野金吾氏と片岡安氏が手を加えて設計。
1913年(大正2年)、建設工事着手。
1918年(大正7年)、竣工。
尾崎行雄や犬養毅、若槻礼次郎らの演説会、三浦環の独唱会、山田耕筰の演奏会、
ヘレン・ケラーの講演会、宇宙飛行士ガガーリンやテレシコワの歓迎集会を開催。
1970年代に老朽化により、取り壊しも検討される。
1988年、市民による保存運動の結果、永久保存を決定。
1996年、中央公会堂保存・再生プロジェクト技術検討会を設置。
1999年、保存・再生工事着手。
耐震性、利便性の向上、外観・内部空間を建設当時の姿に復元。
2002年、改修工事完了。国の重要文化財に指定。


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岡田信一郎というより、辰野式のイメージが強い。
辰野くんがよくやった方法らしいが、審査員として設計を選び、手を加える。
弟子とはいえ、岡田信一郎は嬉しくなかったんじゃないかなー。

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岩本栄之助は、米国視察の際に、
アメリカ企業のトップが、公共の福祉事業を支援していることに感銘を受け、
大阪市に100万円(現在でいうと30~50億円)を寄付。
しかし、その後、株取引で失敗し、無一文となり、
大阪市が援助を申し出たが、それも断り、
1916年(大正5年)、公会堂の完成を待たず、ピストル自殺。
辞世の句は「この秋を待たで散りゆく紅葉かな」。

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「ネオ・ルネッサンスを基調にバロック的な躍動感を加味した意匠」だそうです。

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1階はサンクンガーデン。
カフェ・レストラン中之島倶楽部がある。

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大阪市章の“澪標(みおつくし)”と鳳凰をデザインしたステンドグラス、
松岡壽が“天地開闢”を描いた天井画のある貴賓室(現・特別室)、
迫り出し舞台のある大集会室があるが、賃貸しのため、見学はできず。
1階の展示室でギャラリーが開かれていたので、1階だけちょっとのぞく。
改修の際にユニバーサルデザインをめざしているだけに、
トイレは自動で大きく両側にドアが開く仕組み。
市民の利用を推奨しているので、大集会室5万円(平日、午前)、
特別室2万3800円(平日、午前)から借りることができる。
結婚式(貴賓室26万2500円)だってできちゃいます。


東京駅

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東京駅
1914年(大正3年)
設計:辰野金吾

辰野くんの代表作であり、歴史的建造物でありながら、
今なお東京の顔である、東京駅。
全長335mの超横長。
当初は南口は乗車口、北口は降車専用だったが、
さすがに使いにくいということで改められた。
1945年5月25日の空襲により、屋根や天井の一部を損壊。
南北のドームは現在のような角型になり、3階建てから2階になった。
その後、たびたび高層化が検討されたが、10年以上にわたる保存活動のすえ、
1999年、保存・復元が決定。
2003年、重要文化財に指定。
2006年から保存・復元工事が開始され、2011年、完成の予定。
復元後は、創建当時のドーム屋根がよみがえる。

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中央の正面玄関。

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正面玄関は皇室専用なので、一般の立ち入りは禁止。
「柵の中に入らないでください」という看板がある。
現在でも、国賓の出迎えなど特別な場合のみ使用されるだけで、
一般の中央口は正面玄関の横に設けられている。

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正面玄関の横にある駅長室。

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2階は東京ステーションホテルの客室。

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正面に立つ井上勝の銅像。
新橋~横浜間をはじめ、東海道線などを開通させ、
“日本の鉄道の父”と呼ばれた。

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こちらは「愛の像」。
台座に「愛」と「アガペー」の文字が刻まれている。
戦後処刑されたBC級戦犯の遺稿集の販売利益を元に建立。
井上勝像と愛の像は、1969年から始まった地下工事のため、一時撤去、
長い間、国鉄倉庫に眠っており、1987年、再建立された。

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東京ステーションギャラリー入口。
赤レンガの壁がそのままギャラリーの背景として使われていたり、
静かに展示品を見ているとホームの放送が聞こえてきたりするところが
独特の雰囲気があります。

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東京駅南側。

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東京駅南口。
屋根には零戦の廃材を利用したジェラルミンが使われているとか。

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丸の内南口。ここも辰野式。

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丸の内南口横にある東京ステーションホテルの宴会場側入口。

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ここらへんはボロい感じが残ってます。

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南端あたり。2階は東京ステーションホテルの「フランス料理 ばら」。

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さらに行くとこんな感じ。
はとバス乗り場などに使われているようですがボロい。

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東京駅日本橋口(丸の内中央ビル)。

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日本橋口からは日本橋コレドがすぐ近くに見える。
右側のビルも渋くてかっこいいなと思ったら、
前川國男の三井住友銀行東京中央支店でした。

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八重洲口正面に立つ新橋町ビル。

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東京駅八重洲口。
ここらへんは右を見ても左を見ても再開発工事の真っ最中。
この大丸も八重洲広場の再整備に伴い、姿を消す。

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ライトアップ。

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東京ステーションホテル

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東京ステーションホテル
1914年
設計:辰野金吾

東京駅の南半分を占める東京ステーションホテル。
2006年春から修復工事のため休業してしまうので、
その前にと思って泊まってきました。

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正面ロビー。

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ロビーから2階へ続く階段にあるシャンデリア。
元々はここにエレベーターがあったらしく、
高い天井の吹き抜け空間になっている。

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現在のエレベーター。しかし、ゴトゴト音はするし、
1階から2階まで上がるのに、階段を登るより時間がかかる。
壁の赤レンガは創業当時からのもので、
黒い部分は空襲によって梁の木材が焼けて炭化した跡だそう。

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ロビーに展示されている復元後の完成予想模型。

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3階のドームがかつての姿に復元される。
(個人的にはドームがないほうがかっこいいと思いますが、
それは、今の姿を見慣れてしまったせいかもしれません。)

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2階客室廊下。廊下の幅がなぜかすごく広い。

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私の泊まった丸の内サイドのツインルーム。

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窓からは、丸ビルと東京海上ビルが見える。
かつてはここから丸ビルと新丸ビルが並んでいる姿が見えたはず。
地方から来た人にとってすごく東京的な風景だったろうなと思います。

「お部屋の方が、落ちつけますわ。それに、あのお部屋のながめは、
さっきもほんとうに、あれこそ、わたしにはめずらしくって、
すぐ出るのが惜しかったくらい……。」

「灯がだいぶ消えましたのね。」と、市子は言った。
 丸ビルと新丸ビルの窓明りのことだった。
 さっき、村松を誘いに寄った時は、この二階の部屋に、まだ夕日の残りが、
薄くさしこんでいたが、向かいの丸ビルと新丸ビルの窓は、みな明りがついて、
その上の空は、夕雲と夕もやのさかいがないような、やわらかい桃色だった。
二つのビルのあいだに、皇居の森が黒く沈んでいた。
川端康成『女であること』

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東京ステーションホテルと言えばここ。
東京駅丸の内南口を見下ろす2階の窓。

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東京駅丸の内南口のドーム。
2階が廊下の窓。3階が客室。

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「カフェ&バー赤れんが」。
店内はもっと広そうですが、残念ながらお休みでした。

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「赤れんが」横の窓。丸ビルが見える。

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3階廊下。2階と比べると「物置?」というほど狭い。
チェックアウトの時間をねらって、部屋をのぞいて見たのですが、
南口を見下ろす客室はおもしろいけど、泊まるには落ち着かないだろうなという感じ。
室内も屋根裏部屋みたいな雰囲気でした。

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3階客室の窓から見た風景。

「息がつまるわ。窓がないじゃないの?」
「あんの、あんの。その窓がねえ、小母さま、びっくりしやはりますわ。」と、
さかえはベッドから立って、向うの厚いすりガラスの戸を押しあげると、手招きした。
「来とおみやす。乗車口がまる見えでっしゃろ。」
「ほんとだわ。」
 市子はおどろいた。窓の金網から、乗車口が真下にながめられる。
改札口をひっきりなく人の出入りするのが、正面に見える。
 思いがけぬところに、ホテルの部屋があるものだ。乗車口のドオムの裾が
八角になって、それはみな三階の客室の窓である。
「ながめても、ながめても、見あきィしまへんね。一日じゅう、にぎやかに、
人が動いてるさかい……。うちに見られてんの、だれも知らはらへんしね。」

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2階宴会場前の通路。

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宴会場「牡丹の間」。

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宴会場受付。『女であること』ではロビーとして書かれているので
かつてはロビーとして使われていたのかも。

 二階のロビイでは、正面の奥で、花婿花嫁を中心に、
披露宴の客たちがならんで、記念撮影をしているところだった。

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「フランス料理 ばら」入口。
ここのビーフシチューは伝統の味として有名ですが、
時間があわなくて食べられず。

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宴会場受付から南口へ降りる階段。

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夜12時頃の丸の内北口。

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2階の廊下から見た、夜2時の丸の内南口。

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「家出娘がステエション・ホテルに泊まってるなんて、
だれもよう思わへん……。」
「うちのお部屋、三一七……。三階の内側でっせ。お部屋にすっこんでまっさかい、
小母さま、ないしょで連れ出しに来てくれはります?」

日本銀行本店

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日本銀行本店
1896年(明治29年)
設計:辰野金吾
1974年、重要文化財に指定。

「日本銀行、中央停車場、国会議事堂を設計したい」と言った辰野金吾。
実際に3つのうち3つまで建てているのだからすごい。
(国会議事堂は、自ら開催を主張したコンペの審査委員として参加、
コンペの第一次審査が終了した数日後、1919年(大正8年)に亡くなりました。)

辰野金吾は、工部大学校造家学科の第一期卒業生(しかも主席)。
それまでの外国人建築家ではなく、西洋建築を学んだ日本人建築家による
国家建築ということで、プレッシャーもそうとうあったはず。
欧米に1年あまり出張し、各国の中央銀行を視察、
設計に2年、施工に6年かかっています。

柱やドームなどのバロック様式に、規則正しく並ぶ窓などのルネッサンス様式を
取り入れたネオバロック様式。ベルギーの中央銀行を手本にしたと言われている。
当初は総石造りの予定だったが、地震対策のため、1階は石造り、
2、3階は煉瓦の外側に花崗岩を貼り付け軽量化を図っている。
当時としてはめずらしいエレベーターや水洗トイレの設備を導入。
エレベーターは日本で2番目、水洗トイレは日本で最初に設置されたそうです。

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東側は1932年(昭和7年)に辰野の弟子、長野宇平治によって設計された増築部分。
デザインに統一感があるので違和感はあまりないが、
正面から見たときに左右対称ではなくなってしまう。

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日本人建築家による最初の本格的洋風建築ということもあり、
いろいろ言われた日本銀行。
「2本のオーダーを並べているのに迫力がない」というのもそのひとつ。

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ペディメントに何にもないのも寂しいです。

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中央のドームもあまり目立たない。
1923年(大正12年)の関東大震災で、建物自体は無事だったものの
近隣の火災でドームが焼失。その後、復元されている。

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正面玄関は建物に囲まれた中庭から入るようになっており、外からは見えない。
建物の性格上、安全性を高めている訳ですが、
その堅牢さは、銀行というより牢獄っぽい。

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外堀通り側。
左側に写っているのは1973年に完成した新館。実際の業務は新館に移っている。
この新館のモダンなデザインも結構好き。第15回BCS賞を受賞。

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同じく外堀通り側。

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長野宇平治によって増築された3号館。
この3号館を見たとき、「いろいろ言われてるけど悪くないじゃん」と思いましたが、
辰野金吾の設計ではなく、弟子のほうだったんですね。
師匠のデザインと統一感を持ちつつ、それを超えるあたりがすごい。

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ベランダ(?)。

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3号館を日銀通り側から眺める。

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日銀通り。
建物の角の段差がいい味だしてます。

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同じく日銀通り側。

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日銀通り側。おそらく2号館。

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ここもちょっと要塞っぽい。

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日銀通り。
日本銀行の向かいに三井本館。その向こうに三越本店。
さらに向こうにコレド日本橋が見える。

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2004年10月よりライトアップが開始。
ドームの部分だけライトの色が違うが、
向かいにある日本銀行分館の上からライトを当てている。

歴史ある建物なのでエピソードもいっぱい。

辰野金吾は上京する前に唐津藩で英語を学んでいますが、
そのときの教師が高橋是清(ちなみに同級生は曽禰達蔵)。
上京した2人は高橋是清の勧めあり、工学寮(後の工部大学校)に入学。
その後、銀山で失敗した高橋是清は、日銀総裁、川田小一郎の勧めで
日銀本館プロジェクトの事務員として入社。
かつての教え子、辰野の元で働くことになる。
総石造りを主張する川田総裁に対し、2、3階部分を煉瓦造りにし、
花崗岩を貼り付けるという案を出したのも高橋是清だという。
また、慣れない花崗岩に時間がかかっていたところ、
石工の親方4人を東西南北にふりわけ、早くできた組に報奨金を出す
と言って競争させたのも高橋是清だった。
その後、高橋是清は日銀総裁、大蔵大臣に就任、二・二六事件で暗殺されます。

地下金庫の扉を作ったアメリカのヨーク社の社長は
第2次世界大戦の際に、出兵する息子に
「日本に上陸したら、日本銀行の扉が円滑に動いているか見てきて欲しい。
あれは当社で作ったものだから不備があったら面目ないから」と伝え、
戦後、息子は日本銀行を訪れて、金庫の扉を確認し、
日本銀行はヨーク社の責任感に感銘を受けた。
というエピソードが日本銀行バーチャル見学ツアーに載ってましたが、
戦争に行こうという息子に言う台詞だろうか……。