ニューワールドサービス閉店

2005年1月に三信ビルの解体が発表され、
テナントが次々に移転していく中で、
ひとりがんばっていたニューワールドサービスがついに閉店。
2006年8月の様子
三信ビル解体
ありし日の姿
三信ビルの中に入れるのもたぶんこれが最後なので、
ちょっと寄ってみました。

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撮影禁止の札をあざ笑うかのようにビル内は大撮影大会。そりゃそうだ。

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残念ながらすでに閉店。
(ニュース記事によると、朝から常時20人ほどが並んで、3時には閉店したらしい。)
最後を見に来たおば様たちが「中だけでも見せてちょうだい」とのぞいていました。

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ガランとした館内が寂しい。
入れ替わり立ち替わり人がやってきて名残を惜しんでました。

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半分はしばらく前からすでに閉鎖。

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左半分が閉鎖。取り壊しはすぐにも始まるのか。

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ニュース記事などにも書かれていましたが、
オーナーである三井不動産は本日、東京ミッドタウンをオープン。
三井不動産は三井本館と三井タワーなど、新旧建物の共存も行なっていて、
実際に三信ビルは数年前まで補修工事がちゃんと行なわれていた。
それだけに取り壊し決定は残念。
あきらめずに保存運動を継続している方々もいます。→三信ビルの保存を考える会
ニューワールドサービスのお知らせはこちら

三信ビル近況

近くまで来たので三信ビルによってみました。
横の入口や、通り沿いの入口にシャッターが降りていたので、
「もう入れないのか」と思ったら、シャンテ側は開いてました。

地下は閉鎖され、1階も半分ほど閉鎖、
ほとんどの店舗が移転した中、ニューワールドサービスだけが営業中。

「30年もこの近くで働いているので、このビルがなくなってしまうのは
本当にさびしい」というお客さんと、店員さんの会話を聞きかじったところ、
「今後のことはまだ決まっていない」、
「(いつ取り壊すのか)私たちは知らないし、私たちには関係ないから」
「もうここしかやっていなんだけど、みなさん、遠くからよってくれるので」
だそうです。

おじいちゃん店長は、いつものように紳士らしい格好でおちゃめな口調。
なんだか、店長が三信ビルの化身のように見えてきました。

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1階は半分閉鎖。

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閉鎖扉の貼り紙。

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シャッターの降りた外観。

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こちらの入口もシャッターが。

明治生命館

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明治生命館
1934年(昭和9年)
設計:岡田信一郎
構造設計は東京タワーで有名な内藤多仲が担当。
アールデコの内装は岡田捷五郎によるところが大きい。
1997年、重要文化財に登録。

1881年(明治14年)、日本で最初の近代的生命保険会社として
明治生命が京橋区木挽町に創業。
1895年(明治28年)、曾禰達蔵の設計による三菱二号館に移転。
昭和に入り新社屋の計画がもちあがり、
当初は三菱二号館の隣接地に建設する予定だったが、
岡田は広い面積を使ったダイナミックな建物の必要性を訴え、
師である曾禰達蔵も自らの三菱二号館の解体に同意した。
もともと病弱であった岡田は建設途中に倒れ、
工事現場の16ミリフィルムを撮影させ、病室から指揮を執った。
実弟、岡田捷五郎が後を継ぎ、
岡田の死から2年後、明治生命館が完成。
日本の様式建築の最高峰であり、最後の作品と言われる。

2005年9月に行なわれた先行公開に行ってきました。
一般公開は2005年12月から再開されます。

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1階ラウンジ。
一般公開後は自由に使える空間になるようです。カフェも併設。

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1階に展示されていた模型。よくできています。

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模型正面側。

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模型側面側。

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今では全体像を見ることのできないバックサイド。

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2階会議室。
「1945年(昭和20年)から1956年(昭和31年)、アメリカ極東空軍司令部として接収。
1952年(昭和27年)まで2階の第一会議室が連合国軍最高司令官の諮問機関である
対日理事会の会場として使用されました。
マッカーサー総司令官もこの会場で開催された会議に何回も出席しています。」
明治安田生命のサイトより引用。

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食堂。

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応接室。家具は梶田恵のデザイン。

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1階の店頭営業室を2階から眺めたところ。

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店頭営業室。

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八角形を組み合わせた漆喰塗りの蛇腹天井。

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花のアップ。

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1階店頭営業室よこのスペース。

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パチパチ写真を撮っていたら警備員さんが、
「大理石なんでアンモナイトが埋まっているんですよ。
5ヵ所くらいあります」と教えてくれました。

その2に続く。


明治生命館 その2

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明治安田生命ビル(丸の内 My Plaza)
2004年
設計・工事監修:三菱地所
施工:竹中工務店
1999年、再開発計画を発表。
明治生命館を保存するとともに隣接地に明治安田生命ビルを建設。
2001年7月着工
2005年9月改修工事完了

最初に見たときは「建物の中に建物」とちょっとびっくりしましたが、
歴史的建造物とお濠をそのまま景観として活用したアトリウムはなかなか見事。
修復が終わってみれば、これだけの建物をよく残してくれたと思います。
動態保存ということで、明治生命館も1、2階は一般に公開、
3階以上はオフィスとして活用されます。
再生保存にはいろんな方法がありますが、これは誇っていい成功例でしょう。
(感動して明治安田生命に加入しようかとすら思った)

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明治生命館を内包する丸の内 My Plazaのアトリウム。

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明治生命館入口。

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左が明治安田生命ビル、右が明治生命館。
間の通路はパサージュとして開放されている。
(“パサージュ”って何と思って検索したら、フランス語で小径のこと。
街区とかアーケードのような意味ももつが、ここでは自由通路ぐらいの意味?)

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パサージュ。屋内にあるのでちょっと不思議な感じ。
こちらの外壁は建設当時の資料を元に再現された。

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仲通り側から見た丸の内 My Plaza。
明治生命館の向こうにお濠が見える。

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明治生命館外観。

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5層を貫く大オーダー。

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アカンサスの葉が飾られた見事な柱頭。

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時代を経過した明治生命館を見慣れた人には
修復後の姿はちょっと白すぎという感じかもしれません。

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「外装材の擬石は劣化が激しく、地震時の脱落防止のため
劣化部分の補修と同時に取付け強度を高める措置を施しました。
施工に当たっては技能職の不足で苦労しましたが、
高齢の技能職と新人の組合せのチーム編成をとるなどして乗り切りました。
この新人たちが新しい技能職として自立してくれることを期待しています。」
竹中工務店のサイトより。


日比谷通り

天気が良かったのでお堀沿いに日比谷から大手町まで歩いてみました。
この辺にはいい意味でも悪い意味でも昔の面影が残っています。

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左からDNタワー21丸の内警察署大正生命日比谷ビル
大正生命日比谷ビルの隣にあった日比谷パークビルは現在建て替え工事中。
日比谷パークビルと聞いてピンとこなくても、
「アメリカンファーマシー」を覚えている人は多いはず。
1階にあったアメリカンファーマシーは丸ビルに移転しました。

※日比谷パークビル
1952年(昭和27年)3月、日活国際会館として完成。
潜函工法という当時最先端の工法が使われている。
鉄骨鉄筋コンクリート造地下4階地上9階建て延べ4万8400平方メートル。
上層部は日活ホテル、1960年には石原裕次郎の結婚式も行なわれた。
日活が倒産し、1970年、三菱地所の所有となり、オフィスビルに。
2003年8月解体。
2007年、ザ・ペニンシュラ東京がオープン予定。

※潜函工法
「あらかじめ地上に作った構築物をその下部の土を掘り取って、
構築物の重量で地中に沈ませ所定の地中深度に設置する工法」
日比谷日活国際会館の潜函工事より

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DNタワー21(第一・農中ビル)
新館:1993年10月 本館:1995年9月
設計:清水建設、
ケビン・ローチ ジョン・ディンケルー アンド アソシエーツ アーキテクツ

第一生命館と農林中央金庫、ひとつの街区に建っていた2つの建物を一体化して
再構築するというめずらしい保存方法がとられていますが、比較的成功した例。
前面が第一生命館の北側外壁、裏側に農林中央金庫の外壁の柱頭と柱脚を復元、
後ろの高層ビルが増築部分。
第一生命館と農林中央金庫の頭文字をとってDNタワーと
名づけられたそうですが、21は何?

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農林中央金庫側。

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なんとなく間抜けな感じもするイオニア式柱頭。

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DNタワー21入口。左に第一生命、右側に農林中央金庫の札。

※第一生命館
1938年(昭和13年)
設計:渡辺仁、松本与作
GHQ総司令部が置かれたことで有名。
マッカーサー元帥の執務室は、現在も記念室として保存されている。

※農林中央金庫
1933年(昭和8年)
設計:渡辺仁

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お堀から見たところ。綺麗にラインが並ぶ。

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目の前のお堀。

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帝国劇場
1966年(昭和41年)
設計:谷口吉郎

※旧帝国劇場
1911年(明治44年)
設計:横河民輔
ルネッサンス様式でつくられた日本初の西洋劇場。
1923年、関東大震災によって外郭を残して焼け落ちる。
その後、改修が繰り返され、1966年、谷口吉郎の設計により建て替えられる。
三菱地所設計による国際ビルと共同ビルの内部に劇場が設けられている。
谷口吉郎は、関東大震災により、丸ビル、三越、帝国劇場が倒壊したことに
強いショックを受け、建築の意義を意識するきっかけとなり、
建築家を志すようになったと自書に書いているそうです。
そして自分が建て替えるようになるとは、なんでも志してみるもんだ。

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東京會舘
1971年
ホームページのラウンジの説明に
「ランチや会合・待ち合わせ・二次会・お見合いのお席など、
幅広い用途にお使いいただけます。」とあって笑った。お見合いのお席。

※旧東京會舘
1922年(大正11年)
設計:清水組、田辺淳吉、草間市太郎
鉄骨煉瓦造り、セセッション式、ルネッサンス様式。

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東京商工会議所

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明治生命館
1934年(昭和9年)
設計:岡田信一郎
1997年、重要文化財
2004年9月より、リニューアル工事中。
※2005年9月、リニューアル完了。くわしくはこちら

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丸の内三井ビル
1981年

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三菱商事丸の内新オフィスビル
現在建設中。2006年春竣工予定。
大手町・丸の内・有楽町再開発マップ参照。

※三菱1号館
1894年(明治27年)
設計:コンドル
現在の三菱商事ビル(ってここ?)の位置にあった煉瓦造りの建物。
馬場先通りのあたりは“一丁ロンドン”と呼ばれた。

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郵船ビル
1978年
設計:三菱地所

※旧郵船ビル
1923年(大正12年)
設計:曾禰中條事務所
ルネッサンス式テラコッタ張りの外観。
旧丸ビル(1923年)、旧東京海上ビル(1917年)と並んだこのあたりは
“一丁ニューヨーク”と呼ばれた。

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郵船ビルの前にある像。意味は不明。

日比谷通り その2に続く。


日比谷通り その2

まだまだ歩きます日比谷通り。

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東京海上ビル本館
1974年
設計:前川國男建築設計事務所

シンプルイズベストの見本のような美しいビル。
しかし、1966年(昭和41年)、旧東京海上ビルからの建て替えに際し、
当初の30階、127メートル案に美観論争が起こったのは有名な話。
結局、25階、99.7メートルの改正案に落ち着きましたが、
その後、次々と高層ビルが建てられ、丸の内のスカイラインはすでにデコボコ。
そうなると、あのときスカイラインを守るべきだったんじゃないかという気もするし、
逆に、林立する高層ビルの中で、すくっと建っているこのビルの美しさを見ると、
高さだけが問題ではないだろうという気もします。

※旧東京海上ビル
1917年(大正6年)
設計:曾禰中條事務所
丸の内にできたアメリカ型ビルの先駆けだったそうです。

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横(行幸通り)から見たところ。

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行幸通りから東京駅を望む。
左が東京海上ビル、右が丸ビル、郵船ビル。
かつては、丸ビルの下のライン、100尺(31メートル)に
スカイラインがそろえられていた。

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和田倉濠。
向こうに見えるのがパレスホテル。

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和田倉橋。

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東京銀行協会ビル
1993年
設計:三菱地所
施工:大成建設ほか

美観が問題になるのはこちら。非難ごうごうの東京銀行協会ビル。
ファサードを残すってこういうことじゃないでしょう。
復元保存と聞くと建築ファンがギクッとしてしまうのは、このビルのトラウマだと思う。

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※旧東京銀行集会所
1916年(大正5年)
設計:横河工務所(松井貫太郎)

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日本工業倶楽部会館・三菱信託銀行本店ビル
2003年
設計:三菱地所

さすがに反省したのか、オーナーの心意気が違うのか、
こちらは比較的がんばった保存例。
日本工業倶楽部会館と隣接する永楽ビルヂングを一体として建て替え。

「日本工業倶楽部が日本都市計画学会に委託し、
学識経験者を中心とする「歴史検討委員会」を設置。
保存、再現方法などについて検討を重ねてきた結果、
屋上の坑夫と織女の像、正面玄関の石柱、石材等はオリジナルの材料を使用し、
主要施設である大会堂、大食堂部分をほぼ完全に保存すると共に、
玄関から3階に至る大階段、ロビーについては
内装材を保存活用し、内部空間を再現。」
日本工業倶楽部ホームページより

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関東大震災による損傷の少なかった左側3分の1はそのまま保存、
右側3分の2はレプリカ。
外部より内部のほうがきちんと保存再現されているらしいですが、
そう簡単には入れません。

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※旧日本工業倶楽部会館
1920年(大正9年)
設計:横河工務所(松井貫太郎)
屋上の像は小倉右一郎の作。
写真ではわかりませんが、男性はハンマー、女性は糸巻きを手にし、
当時の二大工業、石炭と紡績を示しているそうです。

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行幸通りから眺めたところ。
三菱信託銀行本店ビルと、日本工業倶楽部会館が別々の建物に見える。
目の前は新丸の内ビル建て替え工事中。

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大手町野村ビル
1994年(オフィス棟)、1996年(アトリウム他)
設計:大成建設
旧日清生命館のファサードを残し(だからこういうことじゃないって)
時計塔を復元。元の建物の形を延長するように高層ビルを建てているので
東京銀行協会ビルほどひどくはないが、それでも感じる違和感。

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※日清生命館
1932年(昭和7年)
設計:佐藤巧一

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丸の内ビルディング
2002年
設計:三菱地所
施工:大林組ほか

旧ビルの外観を残し、その上に高層ビルを建てる新旧合体ビルの代表格。
丸ビルのリニューアルが成功し、新名所となったことで、
丸の内再開発が加速されたような気もする。
(や、もっと前から決まっていたんでしょうけど)

※旧丸の内ビルディング
1923年(大正12年)
「三菱合資会社地所部と米国のフラー社により設立された、
フラー建築株式会社により竣工。特に1階、2階に商店街を開き、
「公衆の出入り自由」のビルとしたことは万都の関心を引きました。
弁護士や会計士などの事務所、建築家、特許弁理士、医者と歯医者、
雑誌社、学会などの自由業的かつ知的な店子の入居が相次ぎ、
知的で文化的な雰囲気を生み出すもとになりました。」
丸ビル年表より

小津安二郎の映画『麦秋』では紀子(原節子)が
丸ビルに勤めているという設定で、オープニングとラスト近くに
丸ビルから眺めた(らしい)、丸の内の風景が映ります。
地方に嫁ぐ原節子に向かって、上司役の佐野周二が「東京をよく見とけよ」と言います。
そのとき映る東京は、ただのビル街なのになぜかとても綺麗なのです。

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現在の丸ビル周辺。
すっかり小奇麗なオフィス街になりました。


丸の内建築年表

日比谷通りをまとめていたら、だいぶごちゃごちゃしてきたので、
 覚え書きとして年表をつくってみました。
 建物の名前は特に明記されていないかぎり竣工年ですが、
 資料によって年号が違ったりするので、間違い等ありましたら、ご指摘ください。
※しかし、こうやってあらためて見ると、丸の内っていうのは
 国と三菱によって作られた街なんですね。
 2008年からは「丸の内再構築第2ステージ」だそうです。
 三菱1号館が復元されるとのことなので注目しましょう。


江戸期
1603年(慶長8)    江戸幕府成立
      江戸城を中心とした都市基盤の整備が始まる。
1607年(慶長12)  日比谷入江の埋め立て
      外国船からの攻撃を避けるため、本郷台地先端の神田山(現在の駿河台)を
      崩して、日比谷入江を埋め立てた。
      内濠と外濠が掘られ、大名屋敷が立ち並ぶ大名小路が整備された。
      皇居外苑が平坦なのは埋立地だから。

明治期
1869年(明治2)    新政府成立
      大手町に大蔵省が設置される。
      旧大名屋敷を転用した行政機関や裁判所が立地し、
      有楽町・日比谷周辺は練兵場に用いられていた。
      大蔵省及び内務省は現・三井物産本社、司法省は現・東京駅。

1877年(明治10)  常磐橋完成
     常盤橋御門は江戸城の門のひとつで、日光・奥州方面の正門だった。
     常盤橋は現在も貴重な洋式石橋として残っている。

1889年(明治22)  市区改正設計により丸の内の一般市街地としての利用が決定。

1890年(明治23)  丸の内一帯(13万5000坪)が三菱社に払い下げられる
     政府は一括払い下げを譲らなかったため、買い手はなかなか決まらなかった。
     丸の内一帯の陸軍省用地及び三崎町土地の価格は128万円。
     (10万7000坪、150万円説もあり。)
     渋沢栄一ら新興実業家たちは連名による共同購入を画策していたが、
     三菱財閥の二代目総帥、岩崎弥之助が全地買占めを断行。
     当初は何の利用もされなかったため、“三菱ヶ原”と呼ばれた。

1894年(明治27)  日本初のオフィスビル三菱1号館が竣工
     設計:ジョサイア・コンドル 地階付き3階建て、延べ床面積1457坪
     煉瓦造屋根スレート葺 現在の三菱商事ビルの位置にあった。

1895年(明治28)  三菱第2号館(後に明治生命館)
      設計:曾禰達蔵

1896年(明治29)  三菱第3号館
      設計:曾禰達蔵 日本初のエレベーターを設置

1899年(明治32)  東京商業会議所
     馬場先通り沿いに4軒の西洋建築が建ち並び、
     この時期は“三菱村の4軒長屋”と称された。
     以降、1912年(明治45)までに20におよぶ赤煉瓦建築が建設され、
     馬場先通り沿いに赤煉瓦のオフィスビルが立ち並ぶ様は、
     “一丁ロンドン”と呼ばれた(一丁=約100m)。

1903年(明治36)  陸軍連兵場跡地に国内初の洋式公園日比谷公園が開園。
             市区改正新設計

1904年(明治37)  三菱4号館
     設計:曾禰達蔵 煉瓦造屋根スレート葺
     現在の古河ビルの位置にあった

1908年(明治41)  東京駅着工

1910年(明治43)  三菱12号館

1911年(明治44)  三菱13号館

             帝国劇場
      設計:横河民輔
      鉄骨煉瓦造、ルネッサンス洋式で作られた日本初の純西洋式劇場


大正期
1914年(大正3)   東京駅開業
      設計:辰野金吾 赤煉瓦と白い石を組み合わせたルネッサンス様式の建物。
      正面桁行184 間(334.54m)、南北2 つのドームの高さは152尺(46m)。
      1945年(昭和20)の空襲によりドームは焼け落ち、八角屋根の形で再建。
      現在、ドームの復元が予定されている。

1916年(大正5)  東京銀行集会所

1918年(大正7)  東京海上ビル
      設計:曽禰中條事務所(曾禰達蔵)
      7階建て、鉄筋コンクリートによる実用性重視のアメリカ式オフィスビル

1920年(大正9)   日本工業倶楽部会館
      設計:松井貴太郎 実業家のための社交クラブとして建設。
      正面玄関のドリス式双子柱が特徴。国の登録文化財。

1922年(大正11)  東京會舘
      設計:清水組、田辺淳吉、草間市太郎
      セセッション式、ルネッサンス様式。

             三菱銀行本店
      設計:三菱地所、桜井小太郎、藤村朗
      SRC、花崗石積 石の列柱が印象的なギリシア神殿風の外観。

1923年(大正12)2月 丸ノ内ビルヂング
      設計:三菱地所設計
      地上8階、地下2階、延べ床面積6万2000平方メートル
      カーテンウォール工法など新しい建築工法を駆使した最新式ビル
      戦前完成した建造物の中で、最大の延床面積を誇った。

             帝国ホテル新館(ライト館)

             9月 関東大震災
      帝都復興事業により行幸通り、常盤橋が完成

             日本郵船ビル
      設計:曽禰中條事務所 SRC 造、外装はルネサンス式テラコッタ張り。

      東京海上ビル、丸ビル、日本郵船ビルなど行幸通り沿いのビルは
      アメリカ式のオフィスビルであったため、“一丁ニューヨーク”と称された。


昭和期
      関東大震災後、、大手町に残る官庁施設の霞ヶ関への移転が進み、
      報道機関や金融機関の本社などが立地。

1928年(昭和3)  丸ノ内八重洲ビル
      ※丸の内再構築第2ステージの一環として、丸ノ内八重洲ビル、
      古河ビル(1965年)、三菱商事ビル(1971年)の3棟を一挙に建て替え、
      この場所にあった三菱1号館を復元する計画が発表されている。


1929年(昭和4)  日比谷公会堂(市政会館)
      設計:佐藤功一 ネオ・ゴシック様式。東京都選定歴史的建造物。
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             三信ビル
      設計:横河工務所(松井貴太郎) 茶色のタイルと三連窓が特徴。
      内部は二層吹き抜けのアーケード商店街、天井のアーチが印象的。
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1931年(昭和6)  東京中央郵便局
      設計:逓信省経理局営繕局(吉田鉄郎)
      白タイル仕上げの初期モダニズム建築。インターナショナルスタイル。

1932年(昭和7)  日清生命館

1934年(昭和9)  明治生命館
      設計:岡田信一郎 アメリカンボザール様式。
      コリント式の列柱が並ぶ重厚な外観。国の重要文化財。
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1937年(昭和12)  帝室林野局
      設計:佐藤功一 現在のパレスホテルの位置にあった。

1938年(昭和13)  第一生命館
      設計:渡辺仁・松本与作 装飾を排した新古典主義的なデザイン。
      戦後占領軍総司令部GHQがおかれた。

1952年(昭和27)  日活国際会館(後の日比谷パークビル)

             新丸の内ビルヂング

1958年(昭和33)  大手町ビル
      建物中央部に設備を集中させたコアシステムを採用

1959年(昭和34)  三菱地所、丸の内総合改造計画を決定
      高さ31mにそろった建物が並ぶ仲通りが整備される
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1960年(昭和35)  行幸通りを掘り、地下2階520台収容の丸の内駐車場を設置
      ※駐車場を保有するのは、三菱地所の関連会社・丸の内駐車場株式会社
      2005年、地下1階部分は、広場を含む地下通路へと再整備される予定で、
      三菱地所は特典として、新丸ビル建て替えでの容積率緩和を受ける見通し。

1963年(昭和38)  建築基準法改正(絶対高さ制限から容積制へ移行)

             日本生命日比谷ビル
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1966年(昭和41)  東京海上ビル建て替え計画、美観論争へと発展
      以後、高さ100mを目安に高層化が進む。
      有楽町ビル、国際ビル(帝国劇場)建て替え
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1967年(昭和42)  帝国ホテルライト館解体

1970年(昭和45)  帝国ホテル新本館
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1971年(昭和46)  東京會舘建て替え
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1974年(昭和49)  東京海上ビル建て替え
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1978年(昭和53)  郵船ビル建て替え
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1993年(平成5)   東京銀行協会ビル建て替え
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1995年(平成7)   第一生命館と農林中央金庫がDNタワーとして再生保存
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1996年(平成8)   大手町野村ビル
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1997年(平成9)   丸ノ内ビルヂング解体

             元国鉄本社ビル跡地売却

1998年(平成10)  丸の内再構築第1ステージ
      丸ビルをはじめとする6棟の建て替えがスタート

2002年(平成14)  丸の内ビルディングオープン
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2003年(平成15)  日比谷パークビル解体

             日本工業倶楽部会館・三菱信託銀行本店ビル
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2004年(平成16)  丸の内オアゾオープン
      旧国鉄本社跡地とその隣接地につくられた複合街区。
      丸ノ内ホテル、日本生命丸の内ビル、丸の内北口ビル、
      新丸の内センタービル、丸の内センタービル、ショッピングゾーンからなる。

2005年(平成17)  新丸の内ビルヂング解体


帝国ホテル

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帝国ホテル
1970年
設計:高橋建築事務所(高橋貞太郎、武藤研究室)
施工:帝国ホテル本館新築工事共同企業体
    鹿島建設・清水建設・大林組
地下3階 地上17階 塔屋2階

1890年(明治23年)帝国ホテル開業。
1909年(明治42年)林愛作が帝国ホテル支配人に就任。
古美術商・山中商会のニューヨーク支店主任だった林と
浮世絵の収集家であるフランク・ロイド・ライトは旧知の間柄であり、
林により新館の設計者としてライトが起用される。
1923年(大正12年)9月1日 帝国ホテル新館(ライト館)完成。
開業披露の日に関東大震災が起こるも、ライト館が生き残ったのは有名な話。
「ホテルハ貴下ノ天才ノ記念碑トシテタチ壊ワレズ  
家ナキモノ多数完全ナサービスヲウケ祝辞ヲノブ」

1954年(昭和29年)、第一新館(後の別館)建設。
1958年(昭和33年)、第二新館(後の東館)建設。
1967年(昭和42年)、ライト館解体。
1970年(昭和45年)、新本館竣工。
新本館の2階には日本最大、3000人を収容できる大宴会場・孔雀の間。
3階にはわが国初めての本格的な国際会議場・富士の間が控えている。
客室は5階から12階の標準客室階と
14階から16階のタワー客室階に合計777室が設けられた。
(ちなみに、開業当時の客室が当時としては大規模な60、ライト館は客室270。
ライト館にも孔雀の間があったが、戦争中に大破。
アメリカ軍は爆撃を避けるべき重要文化財として、古い寺社とともに、
帝国ホテルを指定していたが、誤爆によって、孔雀の間は被害を受けたものらしい。)
1983年、インペリアルタワー完成。
『帝国ホテル物語』参照。

今年、開業115周年を記念して、ライト館のデザインを再現した
「フランク・ロイド・ライトスイート」を新設(なんと1泊40万円!)。
ハイヤーの送迎と特別ディナー、「フランク・ロイド・ライトスイート」2泊をセットにした
宿泊プラン「インペリアル・クラシック115」は115万円だそうです(泊まれるか!)

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ライトによる旧帝国ホテルが有名すぎるため、影の薄い現帝国ホテル。
あまりにも70年代っぽい鉄の高層建築とか、
全体像がよくつかめないデザインは私も好きじゃないんですが、
ロビーにただよう高級ホテルだけがもつ落ち着きは結構好きです。

設計の高橋貞太郎は、絵画館や学士会館、日本生命館などにも携わっています。
帝国ホテル第一新館、第二新館(ともに現存せず)も彼の手によるもの。
帝国ホテル新本館の竣工が1970年2月で、
高橋貞太郎は1970年10月1日に亡くなっています。


日本生命日比谷ビル

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日本生命日比谷ビル
1963年(昭和38年)
設計:村野藤吾(村野・森建築事務所)
施工:大林組
地上8階・地下5階

日本生命保険相互会社が村野藤吾を迎えて建設。
内部に日生劇場がある。
「淡紅色の万成石による重厚な外装、その壁面のバルコニーのように
へこんだオリエント風の窓と黒の紋様の手摺があり、
劇場へ至る足元には長谷川路可氏による大理石モザイクが続きます。」
『日生劇場』の劇場案内より

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「一つのビルの中に生保会社のオフィスと
座席数1330の本格的な劇場を同居させるという試みは、
それが、純粋に一民間企業の事業であるという点において、
当時の人々の耳目を驚かせるに足る出来事だったろう。
建設計画の原点は、首都・東京に建設する自社ビルを単なる営業拠点にとどめず、
日本の芸術・文化発展への一灯としようという理想であり、
モノだけではない心の豊かさを提供しようという高い志であった。

日本生命社長の弘世現氏は、当初、ストックホルム市庁舎の建物をイメージしていた。
近棲するライト設計の旧帝国ホテルとの調和を念頭に置いたものと推測される。
しかし、村野は帝国ホテルが維持面・機能面で限界に来ていることを社長に説き、
今後、百年の使用に耐えつつ、品位と風格を備えた建物とするため、
どのような材料が適当であるかを入念に検討した。

当時はコンクリート打ち放しといった実用性重視の建築が隆盛を極めており、
坪当たり約40万円という石張の豪華な建築に対し、世間のみならず
若い建築家などからも批判の声が上がった。
しかし、村野は“百年の寿命”と建築目的の“表現”という旗幟を鮮明にして、
いささかも動じることがなかった。」
『都市の記憶』より抜粋。

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次々とビルが解体される昨今、
日本の建築は100年もたないのだろうかと考えていたので、
村野藤吾の“百年の寿命”は明解な答えを聞いたような気がしました。
写真左側にはDNタワー(旧第一生命館)、三信ビルが見える。
日本生命日比谷ビルの右隣は現帝国ホテル。

日比谷公会堂

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日比谷公会堂
1929年(昭和4年)
設計:佐藤功一

1920年(大正9年)に東京市長に就任した後藤新平が、
東京市政のための独立調査機関として、
1922年(大正11年)、東京市政調査会を設立。
1929年(昭和4年)、安田財閥の創始者である安田善次郎の寄付によって、
公会堂を付属した会館を建設。
会館は調査会が使用し、公会堂は東京市の管理に委ねた。
上の写真、左側部分が「市政会館」、右側が「日比谷公会堂」。

建築家8名によるコンペの結果、佐藤功一の設計が当選。
佐藤功一は、早稲田大学大隈記念講堂、岩手県公会堂なども手がけています。
(ちなみに、安田善次郎は東大安田講堂の建設資金も寄付しています)

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日比谷公会堂の入口。
この日行なわれていたのは全国中小業者決起大会。
こういうまじめな集会や大会が日比谷公会堂にはよく似合う。
1960年10月12日、日比谷公会堂で演説中の社会党浅沼委員長が
17歳の右翼少年、山口二矢に刺殺される事件が起こっている。

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後になって付けられたものだと思うが、窓や扉の装飾にも
建物のレトロ感をじゃましない気配りが感じられる。

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「館書図門専政市」と書かれた入口。

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内幸町の側から見た市政会館。

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帝国ホテルに取材に行ったときに、日比谷公会堂全体がよく見えたので
一緒にいたカメラマンに頼んで撮ってもらいました。
日比谷公園の緑との調和を考えて外装のタイルを選んだというだけあって、
公園の中にたたずむ姿が美しい。

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