日本銀行本店
日本銀行本店
1896年(明治29年)
設計:辰野金吾
1974年、重要文化財に指定。
「日本銀行、中央停車場、国会議事堂を設計したい」と言った辰野金吾。
実際に3つのうち3つまで建てているのだからすごい。
(国会議事堂は、自ら開催を主張したコンペの審査委員として参加、
コンペの第一次審査が終了した数日後、1919年(大正8年)に亡くなりました。)
辰野金吾は、工部大学校造家学科の第一期卒業生(しかも主席)。
それまでの外国人建築家ではなく、西洋建築を学んだ日本人建築家による
国家建築ということで、プレッシャーもそうとうあったはず。
欧米に1年あまり出張し、各国の中央銀行を視察、
設計に2年、施工に6年かかっています。
柱やドームなどのバロック様式に、規則正しく並ぶ窓などのルネッサンス様式を
取り入れたネオバロック様式。ベルギーの中央銀行を手本にしたと言われている。
当初は総石造りの予定だったが、地震対策のため、1階は石造り、
2、3階は煉瓦の外側に花崗岩を貼り付け軽量化を図っている。
当時としてはめずらしいエレベーターや水洗トイレの設備を導入。
エレベーターは日本で2番目、水洗トイレは日本で最初に設置されたそうです。
東側は1932年(昭和7年)に辰野の弟子、長野宇平治によって設計された増築部分。
デザインに統一感があるので違和感はあまりないが、
正面から見たときに左右対称ではなくなってしまう。
日本人建築家による最初の本格的洋風建築ということもあり、
いろいろ言われた日本銀行。
「2本のオーダーを並べているのに迫力がない」というのもそのひとつ。
ペディメントに何にもないのも寂しいです。
中央のドームもあまり目立たない。
1923年(大正12年)の関東大震災で、建物自体は無事だったものの
近隣の火災でドームが焼失。その後、復元されている。
正面玄関は建物に囲まれた中庭から入るようになっており、外からは見えない。
建物の性格上、安全性を高めている訳ですが、
その堅牢さは、銀行というより牢獄っぽい。
外堀通り側。
左側に写っているのは1973年に完成した新館。実際の業務は新館に移っている。
この新館のモダンなデザインも結構好き。第15回BCS賞を受賞。
同じく外堀通り側。
長野宇平治によって増築された3号館。
この3号館を見たとき、「いろいろ言われてるけど悪くないじゃん」と思いましたが、
辰野金吾の設計ではなく、弟子のほうだったんですね。
師匠のデザインと統一感を持ちつつ、それを超えるあたりがすごい。
ベランダ(?)。
日銀通り。
建物の角の段差がいい味だしてます。
同じく日銀通り側。
日銀通り側。おそらく2号館。
ここもちょっと要塞っぽい。
日銀通り。
日本銀行の向かいに三井本館。その向こうに三越本店。
さらに向こうにコレド日本橋が見える。
2004年10月よりライトアップが開始。
ドームの部分だけライトの色が違うが、
向かいにある日本銀行分館の上からライトを当てている。
歴史ある建物なのでエピソードもいっぱい。
辰野金吾は上京する前に唐津藩で英語を学んでいますが、
そのときの教師が高橋是清(ちなみに同級生は曽禰達蔵)。
上京した2人は高橋是清の勧めあり、工学寮(後の工部大学校)に入学。
その後、銀山で失敗した高橋是清は、日銀総裁、川田小一郎の勧めで
日銀本館プロジェクトの事務員として入社。
かつての教え子、辰野の元で働くことになる。
総石造りを主張する川田総裁に対し、2、3階部分を煉瓦造りにし、
花崗岩を貼り付けるという案を出したのも高橋是清だという。
また、慣れない花崗岩に時間がかかっていたところ、
石工の親方4人を東西南北にふりわけ、早くできた組に報奨金を出す
と言って競争させたのも高橋是清だった。
その後、高橋是清は日銀総裁、大蔵大臣に就任、二・二六事件で暗殺されます。
地下金庫の扉を作ったアメリカのヨーク社の社長は
第2次世界大戦の際に、出兵する息子に
「日本に上陸したら、日本銀行の扉が円滑に動いているか見てきて欲しい。
あれは当社で作ったものだから不備があったら面目ないから」と伝え、
戦後、息子は日本銀行を訪れて、金庫の扉を確認し、
日本銀行はヨーク社の責任感に感銘を受けた。
というエピソードが日本銀行バーチャル見学ツアーに載ってましたが、
戦争に行こうという息子に言う台詞だろうか……。
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