日比谷通り その2
まだまだ歩きます日比谷通り。
東京海上ビル本館
1974年
設計:前川國男建築設計事務所
シンプルイズベストの見本のような美しいビル。
しかし、1966年(昭和41年)、旧東京海上ビルからの建て替えに際し、
当初の30階、127メートル案に美観論争が起こったのは有名な話。
結局、25階、99.7メートルの改正案に落ち着きましたが、
その後、次々と高層ビルが建てられ、丸の内のスカイラインはすでにデコボコ。
そうなると、あのときスカイラインを守るべきだったんじゃないかという気もするし、
逆に、林立する高層ビルの中で、すくっと建っているこのビルの美しさを見ると、
高さだけが問題ではないだろうという気もします。
※旧東京海上ビル
1917年(大正6年)
設計:曾禰中條事務所
丸の内にできたアメリカ型ビルの先駆けだったそうです。
横(行幸通り)から見たところ。
行幸通りから東京駅を望む。
左が東京海上ビル、右が丸ビル、郵船ビル。
かつては、丸ビルの下のライン、100尺(31メートル)に
スカイラインがそろえられていた。
和田倉濠。
向こうに見えるのがパレスホテル。
和田倉橋。
東京銀行協会ビル
1993年
設計:三菱地所
施工:大成建設ほか
美観が問題になるのはこちら。非難ごうごうの東京銀行協会ビル。
ファサードを残すってこういうことじゃないでしょう。
復元保存と聞くと建築ファンがギクッとしてしまうのは、このビルのトラウマだと思う。
※旧東京銀行集会所
1916年(大正5年)
設計:横河工務所(松井貫太郎)
日本工業倶楽部会館・三菱信託銀行本店ビル
2003年
設計:三菱地所
さすがに反省したのか、オーナーの心意気が違うのか、
こちらは比較的がんばった保存例。
日本工業倶楽部会館と隣接する永楽ビルヂングを一体として建て替え。
「日本工業倶楽部が日本都市計画学会に委託し、
学識経験者を中心とする「歴史検討委員会」を設置。
保存、再現方法などについて検討を重ねてきた結果、
屋上の坑夫と織女の像、正面玄関の石柱、石材等はオリジナルの材料を使用し、
主要施設である大会堂、大食堂部分をほぼ完全に保存すると共に、
玄関から3階に至る大階段、ロビーについては
内装材を保存活用し、内部空間を再現。」
日本工業倶楽部ホームページより
関東大震災による損傷の少なかった左側3分の1はそのまま保存、
右側3分の2はレプリカ。
外部より内部のほうがきちんと保存再現されているらしいですが、
そう簡単には入れません。
※旧日本工業倶楽部会館
1920年(大正9年)
設計:横河工務所(松井貫太郎)
屋上の像は小倉右一郎の作。
写真ではわかりませんが、男性はハンマー、女性は糸巻きを手にし、
当時の二大工業、石炭と紡績を示しているそうです。
行幸通りから眺めたところ。
三菱信託銀行本店ビルと、日本工業倶楽部会館が別々の建物に見える。
目の前は新丸の内ビル建て替え工事中。
大手町野村ビル
1994年(オフィス棟)、1996年(アトリウム他)
設計:大成建設
旧日清生命館のファサードを残し(だからこういうことじゃないって)
時計塔を復元。元の建物の形を延長するように高層ビルを建てているので
東京銀行協会ビルほどひどくはないが、それでも感じる違和感。
※日清生命館
1932年(昭和7年)
設計:佐藤巧一
丸の内ビルディング
2002年
設計:三菱地所
施工:大林組ほか
旧ビルの外観を残し、その上に高層ビルを建てる新旧合体ビルの代表格。
丸ビルのリニューアルが成功し、新名所となったことで、
丸の内再開発が加速されたような気もする。
(や、もっと前から決まっていたんでしょうけど)
※旧丸の内ビルディング
1923年(大正12年)
「三菱合資会社地所部と米国のフラー社により設立された、
フラー建築株式会社により竣工。特に1階、2階に商店街を開き、
「公衆の出入り自由」のビルとしたことは万都の関心を引きました。
弁護士や会計士などの事務所、建築家、特許弁理士、医者と歯医者、
雑誌社、学会などの自由業的かつ知的な店子の入居が相次ぎ、
知的で文化的な雰囲気を生み出すもとになりました。」
丸ビル年表より
小津安二郎の映画『麦秋』では紀子(原節子)が
丸ビルに勤めているという設定で、オープニングとラスト近くに
丸ビルから眺めた(らしい)、丸の内の風景が映ります。
地方に嫁ぐ原節子に向かって、上司役の佐野周二が「東京をよく見とけよ」と言います。
そのとき映る東京は、ただのビル街なのになぜかとても綺麗なのです。
現在の丸ビル周辺。
すっかり小奇麗なオフィス街になりました。
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